リーダーの理由

人は何のために本を読むのか、というのは深遠なる問題であろうと思う。もちろん、「本」といってもさまざまな種類があるから、それらを同列に論じることはできない。教科書や参考書といった類のものは、そこからなんらかの知識を得るために読むものであろうし、専門書の多くがこれに類するものである。新書と呼ばれる装丁の本もこれに類するだろうが、これはなんらかの知識というよりも、その著者の主張するところの意見といったものが多分に含まれているように思われる。

さて、これら「知識を得ることのできる本」ではなく、いわゆる「小説」といったものはどうであろうか。なんらかの具体的な知識がそこから得られるのかというと、そうではなかろうと思うのである。いや、なにも得られない、無駄だ、という気はさらさらない。その著者の根底に流れている思想が反映されている場合もあるだろうし、あるいはもっと端的に問題としたいことをフィクションとして表現している場合もあるだろうと思う。しかし、多くの場合、小説といった類のものは、読者の楽しみのため、エンターテインメントとして供されているのではなかろうかと思うのである。

…などといった「小説」論について述べたいわけではない。知ってのとおり私は文学を専攻しているわけでもないし、大量の書籍を読んでいるわけでもない(ちなみにここで大量といっているのは、1年間に365冊を基準としたい。いや、たとえ100冊でも私にとっては十二分に大量なのだが)。私が小説を読む理由は、小説を通じて疑似体験をしたいとか、そういった理由ではない。なにもできない時間というのを、極力、少なくしようとするがためにである。「できない」時間であって、「しない」時間ではない。「しない」というのは能動的な無活動であり、「できない」というのは受動的な無活動である。なんだかんだといっているが、要するに「移動する電車の中でボーッとしているのに耐えられない」からである。結局のところ「時間潰し」である。

いや、ボーッとしていてもいいのだが、事実、そういうときもあるのだが、しかし、ボーッとしていたくないときにそれを強制されると、眼が泳いでしまい、あらぬ所を見ることになってしまうのである。ちょっと待て、そうではない。べべ、別に、向かいの座席の女性の脚など見てはおらぬぞ。大きな誤解である。誰かさんのように、そ、その、それが見えたというだけで、その日いちにちをハッピーな気分で過ごせるとか、そんなことは一切ないのだ、ないったらないのだ、ないんだってば。

…取り乱してしまった。なんの話だったか。そうだ、移動する際の電車の中など、ボーッとしていたくないときにそれを強制されると、眼が泳いでしまうのである。視力は平均以上に良いものであるから、吊り広告などをじっくりと読んでしまうのである。おかげで、基本的な芸能情報などは、ワイドショーなど見ないにも関わらず、それなりに知っていたりするのだ。

芸能ネタが有用なのかどうかはともかくとして、要するにボーッとする以外の動作をしていたいわけである。選択肢としては、ストレッチやラジオ体操をするというのもあるが、これはただの危ない人である。単語カードをめくって英単語を覚えるというのもありな気がするが、大学院生のやることとは到底思えない。その発展形として、論文のコピーを読むというのもあるが、これは極めて体力を消耗する。携帯電話でなにかをするというのもあるが、この小さな画面でウェブを見る気には到底ならないし、最新機種ではないのでJavaのゲームもできない。いや、ゲームは決してしないだろう。電車に乗って周囲を見渡せば、いまや、漫画を読んでいる人間よりも携帯電話の画面に見いっている人間が多いのだ。悪いけれども、これは、電車の中でラジオ体操をしている人ほどではないが、ちょっと恐い状況だ。まわりが全員そうなったときのことを考えると、ちょっとどころではなく恐い。

というわけで、時間潰しのための「小説」なのである。あくまでも時間潰しであるから、買った本をうちに持って帰ってすぐに開くということはしない。その数冊が机の上にきれいにカバーをかけて積み重ねられ、そのうちの1冊がバッグに入れられるのみである。さらに、滅多なことがないと部屋で読書するということはない。だから、1冊の本を読み終わるまでの期間は極めて長くなる。

余談ではあるが、こういった、時間潰しのために少なくとも1冊の文庫本をバッグに入れて電車に乗る人間、そうしないと不安でたまらなくなる人間を「活字中毒」と呼び、「読書好き」や「本キチガイ」とは区別されるべきであろうと思う。

さて、時間潰しであるから、「この本が読みたい!」といった積極的な読書ではないのであり、ゆえに、ハードカバーではなく文庫本を読むことになる。なぜなら廉価であるためである。こういう消極的な読書をしていると、本屋に行く理由も、本を探しに行くというよりも、ストックが切れたから行くという理由になってしまうのである。また、移動時間が極めて短いことから、短編集が好まれる。さらに、電車の中で読むということで、高い集中力を保たなくてはならないような難解なテーマを持った本は自ずから避けられ、周囲が少々騒がしくても容易に読むことのできる軽めの小説が選ばれることになる。とはいっても、限りあるフトコロであるから、あまりくだらないもの、面白くないものは選びたくないのだ。

だが、このような基準で文庫本を買っていくと、そのうち、壁にぶつかることになる。初期には、読みたい作家の読みたい本がいくらでも本屋に並んでいたのだが、それが枯渇してくるのだ。なにかのはずみで別の作家に手を出し、外れると、たいていの場合、その作家の他の作品は読みづらくなる。当たればある程度続けて読むことになるが、やはり、そのうち枯渇しはじめる。

そもそも、ある作家の本を選ぶというのは、多分に偶然という要素が絡んでいる。その偶然とは、ある本の解説を書いていたなどというありがちな理由であったり、タイトルが魅力的だとか、装丁の絵にひかれたなどという「ジャケ買い」であったり、あるいは、隣の女の子が手にとったからだとかいうくだらない理由だったりする。ちなみに、ひねくれ者であるから、「ベストセラーだから読む」とか「話題の本だから読む」といったことはしない。あくまでも、己のフィーリングのみによって買うのである。

だから、誰かに本を紹介してもらったりすると、その本は少なくともその人は面白いと思い、しかも他人に紹介したくなるほどの作品だったということが保証されているわけであるから、もう居ても立ってもいられなくなって、その本を躍起になって探してしまうのである。

というわけで、先日、とある人に…、 あ、あれ、なんということか、導入部だけでこんなになってしまったではないか。やっと、本を紹介してもらったことの嬉しさを説明できたというのに、どうしたものか。

えーっと…、運がよければ、次回につづくっ!


2001.10.12 注記 (あるいは言い訳)
 たいへんもうしわけないのだが、「次回につづくっ!」と書いたにも関わらず、いつのまにか夏が過ぎ、3ヶ月が経過している。このまま放置するというのもやはりアレなので、お詫びさせていただくことにした。紹介していただいた本は、とうに読み終わり、それに続くシリーズも既刊のもの(文庫版)は読了している。あとはシリーズのラストの1冊が(文庫で)出版されるのを待つのみである。
 実のところ、「ミステリィ」について書こうと思っていたのだが、なかなかに纏まらないのである。「次回につづくっ!」といった手前、「次はコレ」と考えていたのだが、それだけに変なプレッシャが…。というわけで、ここはひとまず丁重にお詫びさせていただき、「またいつの回かにつづく」ということに変えさせていただきたいと思う。
 たいへんもうしわけない。ご容赦くだされば幸いである。

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