日記を書かない理由

たいていのパーソナルなウェブページにありがちなコンテンツが、ここには存在していない。それは日記である。

その理由はとてつもなく簡単なもので、日記を毎日毎日書くということが明らかにできない種類の人間だからである。もちろんそれだけではない。このウェブページを公開したころ、つまり、1999年2月の時点で、すでに某友人によって日記ページが開始されていたことが大きな理由といえるだろう。近隣の知人の追随をするということは私にとっては許されざるべきことである。他との差別化をはからなくては、独自性というものは生まれないのだ。いや、もちろん、現在とて独自性を持ったページをつくれているかというと、それには全く自信がないのだが。

さらに理由は続く。実のところ(これもまた、いまだに達成されているとは言い得ないのではあるが)、このページを公開しはじめて少したったころから持っているコンセプトがあるのだ。それは「内輪だけで留まってしまうようなページはつくるまい」ということだ。いや、結果としてそうなったとしても、それを否定することはないのだが、しかし、そういう心構えなりを持っていようと思ったのである。ネタは自分の知りうるかぎりの範囲でしか調達できない、だから、結果としてローカルになるかもしれない、それでも他人を意識して書いていこうと考えてきたのだ。うーむ、言っていることは崇高だが、現状を見よ、自分よ!

そういうわけで、ここにはパーソナル/プライベートの代名詞であるところの日記は存在していないのだ。いや、日記というコンテンツそのものを否定しているわけではない。この世の中には「日記系サイト」というウェブページのジャンルが確実に存在しているのはわかっている。そのなかには、日記というよりもネタの披露に近いものもあったりして、赤の他人の日常なのにおもしろおかしいものも存在し、それを読む数万単位の人口が存在していることも知っている。当然のことながら、その存在を否定はしないし、私自身とて、そのような日記を読んでいることがある。

さらに言わせていただければ、世の中には「個人の単なる日常を世界中に公開してどーする!」などとおっしゃる御仁もいるが、これには実のところ賛同しかねる。インターネットそしてウェブページは既にコミュニケーションの手段として確立しているものである。そのような中で、知人友人のために自分の近況を報告するコミュニティとしてのウェブページが存在するのは許容すべきことであり、当然のことなのだ。もちろん、世界中からアクセス可能ということは脳みその片隅にでも意識していなければならないのではあるが。

ともかく、いろいろな理由があって日記を書いていないのであるが、もしも仮に私が日記を書くことを決心したとしても、そこにはあまりにも多くの障壁が存在するのである。

少なくとも「日記」というジャンルのコンテンツをたちあげるとすれば、それなりに頻繁な更新が必要であろうと思うのである。理想的には毎日である。開始当初はほぼ毎日の更新を行っていた日記が、そのうち週に1回になり、ネタがあるときだけになり、更新が停止し、ついには閉鎖されてしまった個人ページがいくつあっただろうか。それを考えると定期的に更新することはモチベーションを保つためにも重要である。

しかし、よくよく考えてみて、それほど毎日の生活に対して記録すべきことがあるかというと、そうでもないと答えざるを得ないのである。日記を書いていない人は思い浮かべてみてほしい。1日の終わりにその日の復習をしたとして、人に伝えるべきことがどれだけ残っているだろうか。たとえば昼間の一瞬、「あ、コレだ」と思ったことであっても夜になると忘れてしまっていることがほとんどである。だからといって、その瞬間にメモ帳やボイスレコーダを取りだして記録するのは馬鹿げている。そんな日記のための生活なんてイヤである。というよりも、それは日記ではなくて「ネタ帳」だ、恥ずかしくないのか。

そもそも、いわゆる日記、すなわち日記帳に書く日記の習慣さえ私が持っていないのは、ペンと紙で文章を書くことができないというカラダになってしまっているからである。いまや私が文章を書くためには、キーボードとエディタが必須となっているのである。

それでは、キーボードとエディタをつかって日記を書くということを仮定してみよう。ここで問題が生じるのである。それは、昨年の年末にも書いたのだが、「自分をも含めた他者に見せることのない文章ということを、私はどうも嫌っているようなのだ」ということなのである。すなわち、キーボードで打ちこんだ文章というのは、公開されるべきモノ、公開されなくてはならないモノなのである。

ここで、「公開する」といえば「ウェブページ」なのである。ウェブページとして公開するためには、HTMLに加工しなくてはならない。すなわち、<html><body><p>などといったタグを一緒に打ちこんでいかなくてはならない。読者の利便性を追求するならば、「最新」「最近」「月別」などとファイルを整理しなくてはならないかもしれない。さらに外部からの参照をサポートするためには、<a name=...>とアンカーを埋めこまなくてはならない。レイアウトに凝りはじめると<tr><td>の海の中で溺れる羽目になるかもしれないし、スタイルシートを使うとしてもclassの指定を正しく行わなくてはならない。そんなのは日記を書くこととは別のところで体力を使ってしまう。これでは内容に集中できない。単純作業は昔から嫌いなのだ。

だが、キーボードとエディタで、ということは、その前提として目の前にはコンピュータが存在しているということである。単純作業といえば、コンピュータの最も得意とする分野のことである。それなら、HTMLへの変換はコンピュータにやってもらおう、と考えるのは、プログラミングのできる人間にとっては自然な発想かもしれない。しかし、その作業をプログラムするのは自分なのである。なんと非生産的なプログラミングであろうか。馬鹿馬鹿しくてやっていられないし、仮にそれをはじめたとしても、プログラムが完成するまでは日記が書けないわけであり、プロトタイプのテスト段階では、日記が更新履歴になってしまうことは目に見えているのである。(もちろん世の中にはHyper NIKKI Systemなどなど、様々な日記システムが存在するが、ほとんどがサーバを必要とするし、そもそも自分で作らないと、自分好みにできないではないか)

そういうわけで、ただ文章を書くだけで、その文章がHTMLに加工され、ウェブページとして自動的に更新されるようなシステムが存在しないかぎり、日記を書きはじめることさえできないのであった。

たとえこのあたりの問題がすべて解決したとしても、最大の問題が残っているのだ。このような簡易なシステムを実現して文章を書いていくとすると、どのようなことが起こると予想されるのか。つまり、ある瞬間、思いついた途端にエディタを開き、文章を打ちこんで保存すると、あとは自動的にプログラムが文章をHTMLに加工し、ウェブページとして公開してしまう。これはつまり、もはや、日記システムではないのである。こういうのは「ハイパーネタ帳システム」というのである。要するにネタ帳である。恥ずかしくないのか。

かくなる理由により、私が日記を書くということは決してないのである。

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