朝、目が覚める。窓の外を見る。雨だ。
雨であるからといって、嘆く必要はまったくないはずであるのだが、現代人、特に都会人というのは雨を嫌うものだ。本来、雨は、恵みの水であり、生物にとっては重要な水を与えるものである。その他の効用として、空気中の微細な塵を洗い流すという作用もある。当然、道路などの埃も洗い流してくれるのだ。雨のあとが清々しいのはそのためだ。そうして、森林を潤し、結果、貯水量が増加し、都市の水不足も解消されるはずである。どうだ、と雨にいわれてもいいくらいなのである。しかし、雨は自らの音のみで何も主張しないのだ。えらいえらい。口ばっかりで効用のない誰かさんとはまったく違う。ただし、怒らせるとたいへんなのだが…。
とはいったものの、朝、目が覚めて、窓の外を見て、雨、というわけなのだ。少々、憂鬱だ。憂鬱といわないまでも、気が滅入る。ま、夏にあれだけ暑い快晴の日が続いたころには、少しは雨でも降れよという気にはなったが、それはそれ、今日は今日である。
なにしろ雨が降っていると、でかける気がかなり減少するではないか。もちろん、目が覚めたのが昼ごろで、照りつける太陽光の灼熱が降っているとしたら、それはまた出かける気が減少するが。雨というのは、まったくもって、人の気持ちを微妙にかげらせるものだ。
さらに、この微妙な降りぐあいはどうだ。降るなら降るで、ドバーッと降れば、すぐに出かける気はゼロになるものを、こぬかあめ、というか、しとしと降っているのである。秋だなあ、などといっている場合ではない。出かけるかどうかを決せねばならぬ。
とりあえず、天気予報だ。テレビでもラジオでもいいから、天気予報だ。
「朝方は雨が降りますが、日中は日が出るでしょう。その後夕方からはまた大気が不安定になるでしょう。降水確率は昼12時まで50%、のち、午後6時まで10%、それから夜0時まではまた50%で…」
昼間は晴れるとさ。しかし、大気が不安定とは、具体的にどういうことなんだろうか。なかなか具体的にイメージしにくいが…。たとえば、挙動不審な大気…そんなものないか。
さて、外を見ると、いまだ霧雨である。昼間には晴れるらしい。微妙だ。絶対に出かけなくてはならないというほどのものではないのだが…。そもそも、講義でさえ、行くかどうか怪しい。これが必須の実験とかならば、雨だろうと何だろうと行かねばならぬと思うし、試験ならばなおさらなのだが。
考えているうちにも、雨は降っている。さっきよりはまた弱くなったらしい。傘を持つのがそもそも面倒なのだ。午後に晴れたときに持っている傘ほど間抜けなものはないではないか。外を見る、やみかけている。しかし、いつ降り出すか分からない。なだめてすかしてやっと泣き止んだ子供のようなものだ。いつまた泣き出すか分かりゃしない。
そうだ、「病は気から」というではないか。雨が降ると思って傘を持つから雨が降るのだ。病も軽ければ気力で治る。雨も軽ければ気力でやむに違いない。さあ、出かけよう。こんな雨は、気合でやむのだ。そうだ、やむ。やむだろう。やむに違いない。やめ。
出かけたあと、僕がどうなったか、想像には難くあるまいが…。