みんな、嘘。

わたしは彼のことを好きだった。

ほんとよ。うそじゃないわ。いまでも…どうかしら、きっと好きなのだと思う。でも、あのころのような気持ちじゃないのは確かね。だって、もう、別れてしまったのだから。

彼はとても優しい人だった。はじめからそうだった。もともとわたしのほうからだったもの。わたしが自分から好きだというのは、それまででも珍しいことではなかったけれど、彼は特別だった。彼は優しかった。わたしが逢いたいといえば、よほどのことがないかぎり、逢ってくれた。ずっとそうだったし、ずっとそうだ、と思っていた。

彼もきっとわたしのことを好きだった、と思う。少なくともはじめはそうだったはずだと思う。でも、彼は、それと同じくらい自分の仕事を好きだったし、彼の男友達も好きだったし、わたしの知らない女友達も好きだった。彼は、何ヶ月かにいちど、とても忙しくなることがあったけれど、そんなときの彼に逢うのはこわいくらいだった。たしかに逢ってくれたけれども、目は笑っていないのがわたしにはわかったし、ときどきほかのことを考えているようなことがあった。そんな日は、わたしは早く帰ることにしていた。わたしが思っていたとおり彼はほかのことを考えていて、わたしが「もう帰る」と言っても、止めなかった。わたしはかなしかった。

そうじゃないときの彼は、とても激しい感情の持ち主だった。わたしを抱くときにも、しゃべるときにも、わたしにはとめようがないくらいのはしゃぎようだった。きっと、躁状態というのはこういうことをいうのだろう、というくらい活発だった。でもわたしはそんな彼が好きだった。彼の口から出てくる言葉のひとつひとつ、彼の感触のひとつひとつがわたしのからだにしみこんでくるような、そんな感じがした。

彼にはわたしの知らない友人がたくさんいた。彼はその友人たちと遊ぶことがしばしばあった。そういう予定が入っているときには、あとからのわたしとの予定は入らなかった。あたりまえだと彼は言ったし、わたしもそう思ったけれども、やっぱりかなしかった。そんな友人たちの中に、わたしの知らない女性がたくさんいることも、わたしをかなしくさせた。

なによりさびしい思いをしたのは、彼といっしょにいるときに彼にかかってきた電話だった。話している彼はとても楽しそうだった。わたしには見せないような表情をして、笑っていた。

そんなかんじだったから、わたしは彼のことを信じきれないでいた。わたしが惚れてしまうくらいいい人なんだから、きっと、ほかにもわたしのように思う女性がいてもおかしくないと思ったから。ときどき、わたしは彼に言っていた。「浮気はしないで」と。そんなとき、彼は必ず困ったような、戸惑うような、でも、わたしの目をまっすぐ見つめて、「どうしてそんなことを言うんだい?」と言った。わたしが、「いい人だから…」と言うと、彼は照れたような顔をして、「ぼくはもてないんだよ、君が思うほどいい男でもないんだ」と答えた。わたしは彼のその言葉を信じた、いや、信じようとしていた。でも、彼はあまりにもいい人で、わたしには似合わないような気がして、それでもそばにいる彼が不思議だった。そう思ってひとりで黙っているとき、彼は必ずわたしを抱きしめてくれた。その優しさが、わたしの懐疑心にはすごく痛かった。

そんな気持ちの溝が、わたしたちのあいだにはずっとあった。でもそのうちわたしは気がついた。彼の言葉はうすっぺらだった。もしかしたら、わたしのほうの気持ちが冷めてきたからかもしれない。でも、やっぱり彼の言葉はうすっぺらだった。彼の言葉にわたしは一喜一憂したけれども、それさえも、彼は見こしてしゃべっていたのではと思う。わたしがかんじんなことを聞こうとすると、彼はきまって冗談を言ってごまかしてしまうことがしばしばだった。彼のわたしに対する態度そのものが全部、嘘の塊のような気がした。ケンカしたとき思い切ってそう言ったことがあった。彼は「そうかもしれないね」と言ったきり、もう何も言ってくれなかった。わたしは彼とは別れたくなかった。だからもう、ケンカもしたくなかった。泣きついたわたしを彼は優しく抱きしめてくれた。でもその優しさも嘘のような気がした。

そんなことがあってからあと、わたしは彼にぶつからなかったし、だからケンカもしなかった。本気でぶつかっていかなくなったわたしから、やっぱり彼の気持ちは離れていった気がした。でも、もうケンカはできなかった。わたしは彼のことを好きだったから。

彼は別れようとはけっして言わなかった。彼のそういうところが、わたしには理解できなかった。でも、彼のほうから誘ってくれることはまったくなかった。だから彼の気持ちはわかっていた。彼の気持ちはもうわたしにはない、と。だからといって、彼が浮気をしているとか、ほかに好きになった人がいるとかいうそぶりはまったく見えなかった。実際そうだったのかもしれない。でも、わたしには彼のことが見えていた。彼の口癖はこうだった。「自分で自分のことを好きじゃないのに、他人に好きになってもらおうなんて、失礼だと思わないの?」 わたしは自分に自信がなかったし、だから、自分のことはあまり好きじゃなかった。でも彼のこの言葉で、わたしは自分を好きになろうと思った。でも彼は、あまりにも行きすぎていた。彼は、彼自身のことがいちばん好きなんだと思う。わたしは、けっきょく、嘘の、うすっぺらな、そんな彼の中にいたのだと思う。

けっきょく、私たちはもう限界だった。だから、別れた。彼に「本当に好き?」と聞いてあげた。彼は苦しそうだったから。彼はきっと、どうしたいのか自分でもわからなかったのだと思う。彼は「その質問がどういう意味かわかってるの?」と聞いてきた。もちろんわたしはそのつもりだったから、そうだと言った。彼は「きっと、もう、あのころみたいに好きじゃないと思うよ」と言った。わたしは涙が止まらなかった。彼はわたしを抱きしめてくれた。彼はさいごまで優しかった。さいごまでうそつきだった。

それでも、彼の胸の中で泣きやむと、わたしは彼にさいごのお願いをした。
 「あのね、お願いがあるんだけど、いい?」
  「ああ、なに?」
 「わたしが、わたしが落ちついたら、トモダチとして電話してもいい?」
  「いいよ、べつに」
 「ほんとに?」
  「いいよ。しばらく、ひとりでいるつもりだし」
 「そう…。わたしはきっと、新しい彼氏を見つけるわ」
  「がんばって… まあ、見つかるんじゃない?」
 「それでね、もうひとつ…」
  「なに?」
 「電話だけじゃなくって、あってくれたりもしてくれないかな?」
  「いいけど…ぼくはいいけど、きみはいいの?」
 「ありがと。なんか相談すると思うなあ、誰にも言えないこと」
  「そう? いいよ、べつに」

彼は、ずっとうそつきだった。けれども、もう、わたしに嘘をつくことはできない。でも、わたしはさいごに、いちばんの嘘をつく。彼にはわたしを忘れてほしくないけれども、わたしはきっと忘れるだろう。わたしは決して彼に電話しないし、彼にあうことも、もう絶対にない。わたしはさいごに、彼へのいちばんの嘘をついた。

さよなら。

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