ズレてます

理系の大学に身を置いていると、特に、うちのような理系ソノモノといったようなところにいると、世の中とのズレがかなりあっても気がつかなくなってくる傾向にある。大学に入った時点で、それなりにずれていたものが、数年のうちに大きくなっていくのだ。日々、月々のズレはそれほど大きくないまでも、確実にあっちの方向に進んでいっている。

ということを少しでも認識している人間はよいのであるが、これを認識していない人間が最もタチが悪い。なんたることか、自分は常識人だと思い、ましてや、自分は常識人だと豪語するに至る。まさに重傷である。感覚全体がずれていれば、周囲との軋轢も大きくなり、自分で認識することもできるのだが、下手に社会に適応して、それなりに生きていけるぶん、自分の認識に対する反証がないために、その「常識度」はさらに磨きがかかる。ついには、自己に対する疑いをなくしてしまう。無意識のうちに、反証をもみ消し、自分的解釈をくっつけて納得してしまうのである。

そのくらいの境地に至れば、もはや恐れるものは無し、といった風情である。その境地に至るまでに、たとえば研究成果をあげるなり、地位を確固たるものにするなり、といったことができていると、その人は大物と呼ばれ、自分を評して天才といっても、何故か納得されてしまうものだ。しかし、この異常な環境の中でいつのまにか自分のことを天才と認識し、それでいて実力を発揮できないとなると、傍目から見ればただの変なおじさんである。ただし、本当の天才の言うことはその天才以外には理解できない、という意見もあるが、世の中、評価されなければ浮かばれないのだ。

では、ズレを認識していればそれでよいかというと、そういうわけでもない。ここにそういう認識を持った青年がいるが、そのズレこそ我がアイデンティティと思って、そのズレでもって、人と接している。これは認識というよりも、ひらきなおり、というか、単なる誤解ではなかろうか、と思うのである。不幸なことに、いや彼にとっては幸福なことに、こういった人間は随分といるものであって、まさに天体が引き合うがごとく、引力をおよぼしあい、群れる、という性質を持つ。あとは、認識していない輩と同じで、そのコミュニティの中では、これでいいのだぁ、と思ってしまい、ズレはさらに大きくなっていくのだ。

そういうコミュニティのメンバーは、認識している輩だけかというとそうでもなくて、いつのまにやら、認識していない人間までも巻き込んで、さらに巨大化するのである。そして、そのなかで、認識しているかいないか、という点で大論争になることもしばしばである。認識していない人間は、ズレをアイデンティティとする人たちを、おかしなひとたち、と思っている。また、認識している人間は、認識していない人たちを、天然、と言った言葉でひとくくりにするのである。認識していない人間が、認識している人間とうまくやっていけるのも不思議ではあるが、絶妙な関係の上に成り立っている。ズレアイデンティティな人間にとっては、おかしなひとたち、というのは、おもしろいひとたち、と自動翻訳されるし、天然な人間がズレアイデンティティな人間と一緒にいれば、その性質も疎まれることなく、実においしいネタとなって返り咲くのである。

もちろん、本当に気がつくべきことは、きみたちみんなずれてるんですけど…、ということなのであるのは言うまでもない。

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