どうも人間というものは、分類することが好きなようである。分類し整理することで、そのものを理解したような気になるらしいのである。言葉遊びではないが、分類・分割の「分」の字を以って「分かる」という言葉をあらわすことも、これを示している。
人間は分割をする。古くはギリシア哲学においてアリストテレスは、世界は火と水と土と空気という4元素からなっているとした。言うまでもなくそれ以降の科学の発展は、世界の構成要素を分割するという方向へと発展した。物質の最小単位であると思われた分子はさらに分割され原子となり、究極の構成単位と思われた原子は電子と原子核に分割され、原子核はさらに陽子と中性子に分割され、そしてさらにクオークへ、と言うわけである。
人間は分類をする。社会的に見れば、古代インドで行われ今もその影響の消えないカースト制度、日本でも、士農工商さらにそれ以下の身分までの細かな分類が江戸時代に確立した。近代においても黒人と白人の差別から、ブルジョアとプロレタリアの対立など、様々な分類が社会を動かしてきたのである。現代においても貧富の差と言うものは歴然として残っている。
もちろん、分類を行わなくては、整理ができないわけであって、これは整然とした思考を行うためには必須のことなのであろう。
さて、分割を行う際の最小分割数は 2 である。そういったわけで、古来から対立するふたつのものによって世の中は象徴されてきた。二元論である。古代ペルシアの宗教であるゾロアスター教では、善神アフラマズダと悪神アンラマンユの闘争こそが世界であるとしている。また、中国では世界のすべてを陰と陽に分類する陰陽道の考えがあった。
現在でも、このような二分割の考え方は支配的である。なにより理解がしやすい、というのがその理由ではないかと思うのだ。そしてその究極のかたちが、あなたがこの文章を読んでいるコンピュータである。内部的にはすべて0か1かのふたつによってデータは管理され処理されるのだ。データのタイプとして使用されることの多いバイナリ (binary) という言葉の bin というのは 2 をあらわしている。
人間というのもこのように分類される。格言的なセリフとしてよく使われる「世の中には二種類の人間がいる…」というのが有名であろう。誰が言ったか知らないが、うまい言い回しとして愛用されているのではなかろうか。曰く「不可能なことには興味のない奴と、不可能なことにしか興味のない奴だ」だとか、曰く「間抜けな奴と抜け目無い奴さ」(ピンチに陥ったヒーローのセリフ。実は用意周到なる罠が敵ボスの直下に眠っている)だとか、曰く「コンピュータを使わない人間と、ハードディスクが足りないと思っている人間だ」(つまりどんなにハードディスクを増設しようと、世の中に浮遊しているデジタルデータというのは必ず有限時間内にその容量を食い尽くすことになっているらしい)だとかである。ただ、最終的には、「世の中には二種類の人間がいるのだと思う人間と、そうは思わない人間だ」というように分類されるらしい。
人間個人の思考も突きつめればふたつに分類されるようである。生まれたばかりの乳児は、感情を二種類しか持たないらしいのである。つまり、「快」と「不快」である。腹が減った、眠たい、便をした、というような不快なる感情と、おなかいっぱい、遊んでくれて嬉しい、などといった快なる感情とである。これが成長するに従い、喜怒哀楽などの深い感情へと進化するのだ。
そして、この進化した多種多様な感情を持つはずの成長した人間どもにおいても、結局のところ、○○であるか、ないか、というような二元論的思考をするものが多いのである。かわいいかそうでないか、好きか嫌いか、役に立つかたたないか、金になるかならないか、こういった二元論的考えが世の中に満ち溢れている。こういった状況を批判したいとも思うが、しかし、これとて、二元論的思考をする人間とそうでない人間、という分類になってしまうので、あえて批判はしないことにする。
それでは、ネタ好きの人間は、どのように物事をふたつに分類するのか。もちろん、面白いか面白くないか、であろう。いや、意識してそうしているわけではないのだが、しばしばそうなってしまうのである。こういった性向の弊害として、面白くないと思ったことに対してはことごとく力を注ぐことができない、といった、社会的生活にさしさわる作用がある。しかし、逆に面白いと思ったことに対しては猪突猛進してしまうという作用もある。たとえ、周辺は面白くないと思ったとしても、本人がそう思っているのであるからして救いようがないのである。どちらにしても、世の中の役に立つ種類の人間ではなかろう。
そして私は、というと、勝ちか負けか、この二元論的思考をしていることがしばしばである。むろん、ネタ好きであるから、面白いか面白くないかは重要であるけれども、それより、おいしいかどうか、ということが行動原理となっているのである。これはすなわち、たとえ直接的に面白くなくても、注目さえ集まるならば「おいしい」のである。そしておいしければ、こっちの「勝ち」である。ただ、そううまくいかなくても、「うぉ〜負け負けぇ〜」と言うことで「おいしい」ポジションを取り戻し、内心で「勝った」と思っていることがあるということを、ここに告白しておく。