吃驚 (Document Analysis - 0)

「びっくり」である。大学院講義「ドキュメント解析」なのだ。毎回、テーマにしたがって数人が匿名で600字程度のコラムを書くのだそうだ。それを全員で読んで、あーだこーだと論評し、ベストコラムニストを選ぶのだという。テーマは「めざせ二刀流」だ。「理の素養に文の技法が加われば鬼に金棒!」だというのである。その講義の、エントリーのためのコラムのテーマが「最近のびっくり」なのである。あたしゃ「めざせ二刀流」のキャッチフレーズのポスターに吃驚したよ。

とは言うものの、そのキャッチフレーズに惹かれてこの講義に顔を出したのだからなにも言えまい。そもそも、文章を書くのは好きなのであるからして、このようなウェブページを持っているわけだ。しかし、読者の多くは知人友人の類と、あとは偶然ここに辿りつく方が希にいらっしゃるくらいである。辛辣な批評と言うものをもらったことがないのもしかたがあるまい。そもそも、そういう修練の場としているわけでもなく、書き散らす、という雑文の類に過ぎない。むろん、知人とは言えども他人に読まれることを意識して書くという努力をしていないわけではないのだが、しかし、批評を受け、修練しなくては、文章のレベルを向上させることはできない。そういったわけで、この講義に参加しようと思うわけである。いや、もちろん雑文のネタにしてやろうという魂胆がなくはない、というよりもありありなのではあるが。ともかく、10回あまりの講義回数になると思うのだが、その回のテーマで書ける場合には、できるかぎりここに書いていこうと思うのである。ちなみに、ここに書かれているからといって、講義に参加したコラムそのものであるとは限らないので、ご承知おき頂きたい。

というわけで、第0回、エントリーのためのコラムのテーマが、「最近のびっくり」なのである。それでは始めるとしよう。

そもそも、吃驚するということが滅多になくなっている昨今ではないかと思うのだ。驚くべき事件が多いとは言っても、驚く“べき”事件でしかなく、本当に驚いてしまうことは少なくなっていると思うのだ。たとえ凶悪犯罪が起きたとしても、「ああ、またか…」と思ってはいないだろうか。少年犯罪にしても、最初のころ、例をあげれば、酒鬼薔薇の事件においては世間は騒然となったが、それ以降は「また…」という接頭辞をつけて話されている気がするのは私だけではあるまい。先日の鳥取県西部地震も、阪神淡路大震災と関連づけられ、もともと東日本に生まれ育った人間にしてみれば「また…」というべき対象であり、とくに吃驚するようなことではないのだろうと思う。あいにく私は広島出身なので、そこまで他人事にはとらえられなかったのだが。何れにしても、このような、吃驚に対する免疫のようなものがついてしまっていると思うのである。

そこまで大きな事件について考えなくても、吃驚に対する免疫はついているのではないかと思うのだ。たとえば、私の周囲である。

「お笑いのほうの方ですか」 突如、そのようなことを言われたのである。

つい先日、友人たち五人で箱根へと出掛けた。その夜に泊まった温泉宿の風呂である。湯船に男三人が浸かっていたそのときに、あとから入って来た赤の他人にそう言われたのだ。三人のうち、ひとりは無口なほうなのだが、私を含めたあとのふたりは、下らない冗談を言って人を笑わせることを無上の喜びとするような人間である。しかし、それも仲間うちだけのことであって、それ以上のものではないはずだった。

ところが、である。お笑いですか、などということを、裸の無防備な状態で言われたのである。これは吃驚であった。一瞬の呆然ののち、三人は大笑いである。中でも冗談人間のふたりはバカ笑いである。

その人は、ここの宿で住み込みで働いている人で、聞くところによると同い年であった。しかも、芸人を目指しているらしい。そんな人にはとんとお目にかかったことがなかったので、「そうなんですかー」と二度吃驚であった。

なにやら、夕食のときの話を小耳に挟んでしまったらしい。よくよく思い出してみると、そんな話をしていたわけだ。「ボケとツッコミは…」だとか、「ここはこうボケなきゃ!」だとか、「おいおいツッコめよ」だとか、さらには旅先の開放感からか冗談混じりどころか冗談ばかりの会話を繰り広げていたのだ。いつもに輪をかけて喋りまくっている、それを聞かれてしまったのである。これはお恥ずかしい、としか言いようがなかったものの、その後しばらく、お笑い論なるものが繰り広げられ、風呂の中でさらに笑い声が反響しつづけたのである。

どうも普段は吃驚するようなことは少ない。こちらが吃驚させようさせようと思って生きてような調子であるし、類は友を呼ぶということで、まわりも吃驚な人間ばかりなのかもしれぬ。そうなると、いきおい免疫がついてくるわけで、吃驚するにしても予想がつく。とは言うものの、さすがに旅先で赤の他人から突如そういうことを言われると、吃驚してしまうのだった。

こういった具合である。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、ネタになることオイしいことが三度の飯より好きな人間の周囲には、そういう輩が自然と集いあうらしい。いや、むしろ、そのような人間たちに耐えられる人間のみが残ったというべきか。それもまた、免疫の一種ではあろう。

…といったような「吃驚免疫理論」を繰り広げていたって、エントリーのためのコラム「最近のびっくり」は全く書けないのであった。そもそも、「最近の」という言葉が曲者である。最近とはいつのことを指すのか、というのが曖昧だ。数日前だと「先日」という言葉であらわされ、また、数週間前なら「最近」であるはずだ。しかし、人によっては、「ちょっと前までは」が十数年前だったりするから油断は禁物だ。こういう人にかかると、「最近」は数年前をも指す可能性がある。実際、高校のときの数学教師のひとりがそういう人だったから、吃驚である。まあ、年齢の問題もあるのかもしれないが。

さらに問題なのは、「最近のびっくり」はやはり本当のことを書かなくてはならないのではないか、という問題である。いや、もちろん本当のことでなくても構わない、というか、ある程度の演出は許されるのであろうけれども、「あの日、空を見上げていると、西の空の彼方から凄い速さで宇宙船が飛んできた」などというのは許されまいと思うのである。あくまでも、「現実をもとにしたフィクションです」程度のものでなくてはならない気がするのだ。そうなると、通常の雑文の調子ではなかなか書けないのである。突っ走っていいのであれば、「昼下がりの街角で(補陀落通信)」のような調子もありえなくはないのだろうが、こういうのはセンスがなければ無理だろうと思う。ああ、そういえば、ここ「微文積文」には、吃驚したなぁもぅ、というネタはないなぁ、と改めて思ってみた。

現実にはありえないネタに関して云々していてもしかたがない。どうせこのネタ人間のことであるからして、周囲にいくらでも吃驚なネタは転がっているはずなのだ。問題はそれに対して十分な吃驚が得られるか、という問題なのである。

吃驚するようなことがこの世の中には多すぎて、たとえばニュースになるような犯罪だとか事故だとか災害だとかがその類なのではあるけれども、日常生活でも奇人変人ネタ人間ダメ人間の類がまわりにうようよしているわけで、このような世の中でいちいち吃驚していては、精神的にも不安定になりがちで、よくないことだと思われるのか、自然と免疫がついてきているのである。

先日もそのようなことが起こった。学会で発表するために名古屋まで行ってきたのだけれども、事件はそこで静かに起こったのである。発表にはOHPやプロジェクタなどを用いるのだが、楽だという理由でプロジェクタにしたのだ。PowerPointでプレゼンテーションをつくって、先生のノートパソコンを借りて持っていったのである。通常は、トラブルのあったときのためにOHPシートに印刷して持っていくのだが、そんなんいらんわとばかりの謎の自信で、しかし何故かフロッピーディスクにはバックアップをとってから行ったのであった。

夕方の発表であったので、昼過ぎに到着し、発表時間まで他の発表を見ていたのである。しかし、発表の数時間前から私はある不安を持っていたのだ。

最近のノートパソコンは薄型である。よって、プロジェクタに接続するためのVGAポートは備わっておらず、汎用拡張ポートから変換ケーブルをつかって接続する。その変換ケーブルを私は預かっていなかったのである。いや、用意周到自信満々の先生のことだから、先生の鞄の中には入っているに違いない、と思ったものの、なかったときのことを考えると少々の不安では済まない。だが、しかし、確認をした途端の驚愕を考えると、そいつもつらい。いやいや、どうしたものか…、と考えていたのだった。

そして、発表の1時間弱前、そろそろ移動してチェックでもしますか、と先生に振りをいれ、変換ケーブルのことを聞くと、まったくもって予想通り、忘れてしまった、とのことである。おそるべし S 教授。あんぐりと口を開ける私。しかし、そのあんぐりも演出に過ぎないのだった。これこそが、未来の吃驚を予想することで、その驚愕と動揺とそれによるダメージを最小限に抑えるという免疫作用の現われである。あんぐりと口を開けることで「なんてこったい」という感情をアピールしつつ、内心は「やっぱり…」と落ち着ききっていたのであった。

さて如何というそのとき、先生いわく「大会本部まで行って借りてきな」らしい。さすがは百戦錬磨海千山千である。何とかなるということを知っているらしい。おそるべし S 教授。はたして、ノートパソコンを借りることができたのだった。そんな、借りることができるのであれば、頭くらい何度でも下げますわい。

今回の学会は、私にとって学会初体験であったのだが、得た教訓は、「ツールはすべて自分で確認して持っていこう」「もしものためにOHPシートも持っていこう」ではない。「世の中やっぱり何とかなるのね」であり「学会発表なんて、度胸と愛敬、ハッタリとイキオイ、これだけで何とかなるものね」である。

それにしても、吃驚することが多すぎて、いちいち吃驚していられない世の中である。

まあ、いちいち吃驚してもしかたがないし、それによってダメージをいちいち受けていては、この世の中うまく渡っていけないと思うのである。よって、ダメージを回避し、うまく立ちまわるためには、予測される吃驚パターンを予想しておいてから、その吃驚に立ち向かうというのがよいのではないかと思うのである。別に感情を抑えているわけではない。「吃驚したなぁもぅ」というのはアピールしつつも冷静に対処するというのが、うまい方法なのではなかろうかと思うのだ。

ああ、それにしても、吃驚することが多すぎて、いちいち吃驚していられない世の中である。

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