擬人法 (Document Analysis - 2)

「擬人法」(personification) である。大学院講義「ドキュメント解析」も3回目となった。今回のテーマは、擬人法。擬人法というレトリックを用いて文章を書くのである。これを用いるときの方法を考えていくと、大きくわけてふたつの種類がある。ひとつは、はじめに自分が何かを宣言しておいた上で文章を進めていくもの、いまひとつは、正体を隠した上で伏線を引きながら最後に正体を晒すものである。前者は比較的簡単に書き始められるがうまくまとめる(落とす)必要があり、後者は最後まで隠しながらも読者に徐々にわからせていくという文章力が必要であろうと思われる。

さて、私としては擬人法というのは苦手な分野に入る。中学校だったかの時分に、「我輩は○○である」という文章を書くというのが国語の宿題として出たが、これには相当まいったことを記憶している。どのくらいまいったかというと(以下コーヒーのCMについて10378byte略)

むろん、「我輩は…」というと、漱石の「吾輩は猫である。名前はまだ無い。…」である。ついでだから続きも書くと、「どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。…」と続く。全部書き移していたら夜が明けてしまうどころでは済まないので、あとはすべて省略。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」

なにやら擬人法とは異なる方向に走ってしまったようであった。

そもそも擬人法が得意でないのは、無生物(あるいは人間でないもの)に感情移入できないからであろうかと思うのである。結局擬人法とは言っても、その主張は著者の主張であるからして、だったら自分の口からはっきり言おうよ、と思ったりするのである。いや、単に、レトリックに凝った文章を書くことそのものが不得意だというのはあるのだが。

そもそも、そもそもですよ、あたしゃ、仲間うちではイチバンでかいのでございますよ。でかいだけじゃないのでございますよ。価値だってイチバンあるはずなのでございますよ。ええ、それはそれは、万人の認めるところで、善人も悪人も普通人も、みんながみんな、認めているのでございますよ。イチバンでかいっていうのも、ちゃんと見比べてもらえばわかるのでございますよ。

それなのに、です。なんですか最近の扱いは。ちょっと悪人に人気が出すぎたからって、その扱いは酷くございませんか。以前までは快く通してもらえたところでも、まるで犯罪者のような扱いでございます。門前払いなんてひどすぎると思います。

そいでもって、悪人とのお付き合いを止めるにあたって、かなりの整形を行いましたら。藪医者も藪医者、ひどすぎます。なんですかこの顔かたちは。この色は。

はっきり言って、仲間うちでもかなり不評でございます。イチバンでかいというのはもちろん変わりませんでしたけど、この美白が自慢だったお肌が、汚らわしきイエローモンキーのようになってしまうなんて、最近の科学は素晴らしいことです…って、全然誉めてなんかないただのイヤミです。

なにしろこの色は、仲間うちでも弟分も弟分、百分の一の価値しかないアイツに似ているというではありませんか。弟分たちはたいていが美白自慢だというのにですよ。まあ、ひとり毛色の明らかに違うのがいますが、まあ、彼はおいときます。

しかし、しかしです。これまで門前払いを食らっていたところだけではなく、これまでも快く通してくれたところにまで出入禁止になってしまうとはどういうことですか。しかも、人によっては、昔のほうがよかったといわれる始末。納得がいきません。

そのうち出入禁止の処分は解けるとかなんとか言っていますからこれはまあ許してやるとしても、これから十数年はこの顔かたちで生きていかねばならないと思うと、非常に悲しくなります。どうか、どうか、そんなに私を嫌わないでやってください。どうか、どうかどうか、お願いします、ぅぅぅぅぅ。

あーわたくし、五百円硬貨と申します。新しくなりましたのでこれからもよろしく。

ネタばらしのところで力不足を露呈している気がする。だから、正体を最後まで隠していける文章力が必要だと言ったではないか。よって次は、はじめから正体を宣言する文章にしよう。

ところで思うのだが、この擬人法を用いるにあたって、第一人称というのは重要だと思うのである。私、僕、俺、我輩、小生、拙者、余、麿…などなど日本語の第一人称が多くあるというのは有名な話である。「吾輩は猫である」も英訳してしまえば「I AM A CAT」にすぎないのだ。この第一人称によって、それを使用している人物の人柄や性格などがわかるというものである。「我輩」ならば尊大な感じがする。ただ、「猫」の場合はその尊大さと猫であるという卑小さが対比される関係にあること、これが面白味のひとつではあろうと思う。

さきほどの文章では、「あたし」そして「わたくし」としたが、これは特に意味があるわけではない。いつもの雑文では「私」や「僕」という一般的な第一人称を使っているからというだけである。この第一人称に、普段は使わないものを持ってくるということで、ストーリーそのものには関わらない面白さというか間抜けさというものも出せるのではなかろうかと思うのである。

おいら、キーボードなんです。そうです、こういう文章をペチペチ書くのに必死になっているあなたの手のお供なのです。

あー、あっあっ、いきなりピンチです。こら、触るな触るなこらぁ…菓子を食いながらキーボードに触るんじゃないって…おかげでおいらのフェイスは徐々に汚れていっています。となりのマウスは、奇麗な絨毯の上で優雅に舞っているというのに…そう、おいらと彼女ではまったく待遇が違うのです。彼女はやさしく包まれているというのに、おいらは叩かれまくりなのです。

ほら、今日も、叩きにやってきました。どうもこいつは気にくわんのです。まず、タッチタイプというのが巧くできないので、叩くときにはおいらを睨みながらなんです。恐いんです。でもキーボード仲間の噂によると、タッチタイプの完全にできる持ち主というのは、自分のことを全く見てくれないので、悲しくなることもあるそうです。そのキーボードは、いつも見つめられているディスプレイに嫉妬しているらしいです。

痛いッ。どうもこの持ち主はEnterキーを思い切り叩く癖があるのです。←ここですここなんです「です」の後の「。」のところで思い切りEnterキーを叩きやがったのです。ああ痛いッ、またです。叩かれて叩かれて、サンドバッグの気分です。

この持ち主はくだらない文章を書くのが好きなようなのですが、今日もまた書いています。なになに… 「oira,ki-bo-donanndesu」 ローマ字変換なんです。どうも擬人法でモノを書きたいらしいですね。主人公はおいらのようです。しかし、ミスが多いです。打っては消し、消しては打ち、その繰り返しです。そのたびに叩かれている、おいらのフェイスのことを気遣ってやってください。

あ、またミスタイプしましたね。「\\\\\\\\\\\\」 あらあら、それもミスタイプ。隣のキーなんですけどね…。

とまあこうなるわけだ。ちなみに、構造の中に構造をもつ構造のことを、メタ構造といい、言語を記述するための言語のことをメタ言語といい、そして上のように、文章の中でその文章そのものについて述べる文章を、メタ文章という。

もちろん、こういう文章全体のことを、ダメ文章というのはご存知のとおりだ。

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