「とんでもない」理性であるところの彼は言う。「えー、だってしたいんだもん」感情であるところの彼女はごねる。「そんな、したいからやっていたら、どうしようもなくなってしまうじゃないか」彼は説得を試みる。「えー、でもやんなきゃつまんないじゃん」彼女の主張は続く。「そういう問題じゃないだろ、いいか悪いかを考えろよ」彼は善悪論に持ちこもうとする。「いいにきまってるじゃん。やりたいんだもん」彼女は負けない。「おいおい、それをしたときの影響を考えているのかい」彼は将来を見つめる目で言う。「んーっとね、あたしが嬉しくなる!」彼女の主張はどうしようもない。「絶対に許さんぞ!」彼のほうが感情的になってどうするというのだ。 |
「なんでだめなんだよ!」感情であるところの彼は叫ぶ。「とんでもないことだわ」理性であるところの彼女は冷静に述べる。「俺がやりたいっていったらやりたいんだあ!」彼はさらに声を大きくして主張する。「そういう考えは改めてもらわなくちゃ困るわ」彼女は淡々と話す。「だって、準備は万端なんだぜ、いくっきゃないぜ!」彼は現状を説明する。「そういう問題じゃないの、倫理の問題なの」彼女は良心に訴えかけようとする。「そんなもん、ばれなきゃオッケーだっつーの」彼はめちゃくちゃなことを言う。「そんなんで恥ずかしいと思わないわけ?」彼女は羞恥心を責める。「むむ、そ、そいつは…」彼はプライドが意外に高いのだった。 |
理性と感情、どちらが優位をとるのか、心の中での葛藤である。あえて与えるならば、どちらに女性性そして男性性を与えるかを考えて悩んだ末に、このような書き出しになっている。意見求ム、といったところではあるが、やはり、はじめに書いているような、理性に男性性を、感情に女性性を与えるのが、(男であるところの)自分にとっては自然ではあるのだ。と言いつつも、いつも彼女・感情の甘美なる強引さに堕ちてしまう自分なのだけれども。
理性と感情、別々にわけて考えられることが多いけれども、もちろん両者は複雑に絡みあい、影響しあっている。重要なのはバランスだ。理性だけの人間も感情だけの人間も、狂人であることには間違いがないだろう。衝動的殺人も計画的殺人も狂人的な行動であろうと思うし、おそろしいことでは変わらない。そして理性が重んじられる今日であっても、理性のみによって引き起こされる悲劇もあとをたたない。
バランスが重要だと述べた。しかし、人によってはどちらかが勝っている場合が多いだろうし、ひとりの中でも状況によってそのバランスは変化すると思うのである。ふとした瞬間に我を忘れてみたり、ふと我に返ったりする。とくに、ふと我に返るときに、ああ理性が頭をもたげた、と思う。もちろん、理性と感情という考えを持っているのは、理性のほうであって、感情のほうにはそんな分析能力はついてはいない。といっても、理性と感情の行きつく先は同じだったりすることはよくあって、たとえば、直感的判断が後々の結果から見ると実は正解だった、などということが平気であったりする。逆に、感情的に嫌ってしまうと、よくよく考えてそれほど悪いところがあるというわけではないのに好きになれない、ということも平気で起きる。第一印象というやつはずいぶん重要なのだ。
なんらかの行動をしようとするときに、理性と感情というやつによって冒頭のような葛藤が起きることがある。理性と感情の意見が一致したとき、おそらく日常のほとんどの場合はそうなのだろうが、問題なくその行動は遂行されるだろう。そうしませうそうしませうと太郎さんも花子さんもいひました、というわけだ。しかし、これが異なる意見の場合には、どちらが勝るか、ということになって葛藤になる。理性のほうは、状況や習慣などを気にする。感情のほうは、自分自身や欲求などを気にする。まあ、たいていの場合、理性が勝利をおさめて、ぐっとこらえる、我慢する、といった状態になることがほとんどだが、理性が飲み込まれてしまうほど大きな欲望や衝動が発生したりすると、逆の結果になってしまう。これが、はらへった、くらいの欲望ならば、誰が迷惑するわけでもなく問題ないのだけれども、攻撃的衝動だとか性欲だとか怒りだとかが爆発すると、かなりの確率で問題になるし、実際問題も起きていると思う。その感情がおさまったあとで理性的に考えても、あとの祭りである。
さて、なんらかの行動に出るために、ある判断をしたとしよう。しかし、その行動をするためには、勇気が必要だ、と思うのである。たとえば、理性が「あの人を助けなくては」と思っても、ちょっとした勇気がないために行動に移せなかったり、感情が「この人が好きだ」と思っても、ちょっとした勇気がないために行動に踏みきれなかったりする。勇気は行動を起こすための燃料なのだ。
ここでいつもの某友人が登場する。彼の発言集の中から「勇気がないからできない」が出てくる。「セクハラ的行動ってしたくないわけ?」→「勇気がないからできない」である。ふつうは「別にしたいと思わない」あるいは「やっぱり嫌がることはしない」などが正解だろう。「できない」というのは「したいと思うのだけれども」というのが暗に含まれているように思うのは私だけではなかろう。ふとした瞬間に出る発言は、その人の人格を投影していると思ったりもする。
しかし、あまり彼の発言を攻めることはできない。何故ならば、勇気がないためにできないことというのはずいぶんあるわけで、勇気の量と、世間の目や、その行動の影響や、相手の反応や、いつもの自分とのギャップや、ネタになるかどうかなどといったことを比べたときに、その行動ができるかどうかというのは結構微妙なのである。いまでこそ、女性と手をつなぐことくらい本当になんでもないことだけれども、きっと中学生や高校生のころには大問題だったのだと思う。これは勇気が増えたのではなくて、結局のところは慣れの問題なのだ。なにか新しいことをするとき、たいていはドキドキする。そして思いきってそれをやってみる。二回目もやっぱりドキドキするけれども、初めてのときよりはやはり楽なはずだ。そしていつしかドキドキしない自分を発見する。慣れているのだ。
だからと言って、勇気を持って行動してほしい、というわけでもない。下手な勇気は蛮勇だ。変なことで犯罪に手を染めたり、あるいは正義の鉄拳のつもりが返り討ちにあって死に掛けたり、下手な鉄砲を数打って「またふられたの?」と言われるようになったり、そんなことは我々の本意ではないはずなのである。
本当に重要なのは、勇気を持って行動することそのものではない。それよりも重要なのは、「これはネタになる!」と思ってしまった時点で必要な勇気レベルはかなり下がるだろうということなのだ。そうだ、「人生全てこれネタなるべし」の言葉が我々の背中を押していると思うのだが、どうだろうか。