悪人でいこう

だいたいにおいて、世の中のものというのは2種類に分類されうる。昼と夜だとか、天と地だとか、陸と海だとか、光と闇だとか、男と女だとか、善人と悪人だとか、持つものと持たざるものだとか、ブルジョアとプロレタリアだとか、右と左だとか、美味しいものと不味いものだとか、おいしい展開と悲惨な展開だとか、普通人間と駄目人間だとか、ボケとツッコミだとか、天然と計算だとか、ネタにする人間とネタにされる人間だとか、そういったことである。

しかし、4種類に分類されるような気もする。下の表を見ていただきたい。

  実際
A B
外見 A (A-a) 外見はAで実際もA (A-b) 外見はAだが実はB
B (B-a) 外見はBだが実はA (B-b) 外見はBで実際もB

そういうわけなのである。といっても、多くの事象においては、(A-a)および(B-b)が圧倒的多数を占めるというのは当然である。たいていの場合、男のようであれば男であるし、女のようであれば女である。うーむ、この例は少しばかり語弊があるし誤解を生む。多様性のある現代社会においては、男のモノを持っていれば男であるといったほうがよかろうか。しかし、この論理も破綻する現代社会である。おーけぃ。この例は破棄だ。えーっと、つまり、昼のふりして夜だということはまず滅多にないのである。あ、この論理もキビしい。起床して、外を見て薄暗くて、時計を見て6時であったが、実は夕方であったということがなきにしもあらずであるから…。すなわち、意外にも、(A-b)や(B-a)は世の中に多く存在するのである。つまり、実のところAなのにBと見なされてしまうだとか、実のところはAなのにBのように見せている、というのが存在するということなのである。

見なされてしまう、ということは悲しいことである場合が多い。ぬれぎぬ、冤罪、というのはこういうことだ。真実は無罪なのに有罪とされてしまう、ということである。たしかに、実際に外にあらわれる部分でしか、他人は判断できないものである。もちろん、逆に、そう見なされるように仕向ける、ということも可能である。仕向ける、というと聞こえが悪いが、演出あるいは表現、ということであろう。Aのように思われたければ、Aのような行動をすればよいのである。ただ、実際にはそれほど簡単ではない。美味しいところだけ持っていこうとすると、裏をかかなくてはならないのだ。

悪人と善人というふたつの対極、これについて考えてみよう。

  ココロのなか
悪人 善人
外見 悪人 悪人面で実際も悪人 悪人っぽいが実は善人
善人 善人のようだが実は悪人 善人のようで実際も善人

この中でいちばん損なのは、悪人面の善人である。彼は悲しい。親切をしようと思って近づくと、逃げられてしまうのである。そして、いちばん得をするのは、善人面の悪人なのである。ただ、悪人はやがて損をするのではないかという、一般的な期待はあるのだが。それにしても、悪人のうちではじめに貧乏籤をひくのは、悪人面の悪人である。

さて、善人のような善人、というのは実は大変なのであって、周りみんなに善人だと思われているから、その期待に答えるべく、いろんな親切をしてしまう。そして、自分が破綻してしまう、ということになる。いわゆる「おひとよし」というやつである。

実は世の中はこれほど簡単には分類できなくて、あるときは善人なのだがあるときは悪人にもなりうるというのが、多くの人々の実際のところである。善人のような人、というのはこういうときも大変で、ちょっとでも悪いことをしてしまうと、「あんなにいい人だったのに」と言われ、酷いことになってしまう。善人のような人は、ほんとうに気をつけなくてはならない。可愛さ余って憎さ百倍、という言葉もある。

その点、悪人のような人、というのはお得であって、ちょっとでも善いことをすると、「あんなひとが…」と言われ、ありえないほどの祝福を受けることになる。そんなときに「いや、礼を言われるほどのことぢゃねーぜ」など言って立ち去ると、ますますもって、もてはやされる。

さあ、こう考えてみると、如何なものであろう。こんなことを考えて悪人を称えるのは、やはり私が悪人だからなのであろうか。しかし、「私は善人です」という人間よりも「俺は悪人だ」と言う人間のほうがよほど信頼がおけるような気がする。もしかして、これも私が根っからの悪人だからなのだろうか。

だが、偽善者よりも偽悪者のほうが、よほど格好よく感じるのは確かなのではないかと思うのである。

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