ネタ人間で行こう

だいたいにおいて、世の中のものというのは2種類に分類されうるのである。昼と夜だとか、天と地だとか、陸と海だとか、光と闇だとか、男と女だとか、善人と悪人だとか、持つものと持たざるものだとか、ブルジョアとプロレタリアだとか、右と左だとか、美味しいものと不味いものだとか、おいしい展開と悲惨な展開だとか、普通人間と駄目人間だとか、ボケとツッコミだとか、天然と計算だとか、ネタにする人間とネタにされる人間だとか、そういったことである。

しかし、4種類に分類されるような気もする。下の表を見ていただきたい。

  実際
A B
外見 A (A-a) 外見はAで実際もA (A-b) 外見はAだが実はB
B (B-a) 外見はBだが実はA (B-b) 外見はBで実際もB

そういうわけなのである。といっても、多くの事象においては、(A-a)および(B-b)が圧倒的多数を占めるというのは当然である。しかし、意外にも、(A-b)や(B-a)は世の中に多く存在するのである。つまり、実のところAなのにBと見なされてしまうだとか、実のところはAなのにBのように見せている、というのが存在するということなのである。

われわれの一般的な会話について考えてみることにしよう。

  本人の意識
笑いをとりたい いたって真面目
他人 笑ってしまう おいしい 天然ボケ?
普通にうけとる はずした(寒い) (普通の会話)

他人の評価というのはなかなか一定しない。ことによると、意図せざる結果になるということも十二分に考えられるので、よくよくリスクを考えた上で行動しなくてはならない。もちろん、上の表で、天然ボケを狙うのは至難の技である、いや、むしろ、意図せざるときに笑われるのは心外でさえある、というよりも、狙ってしまっては天然ではない。しかし、寒いというのを狙うのは難しいことではない。いや、誰も狙いはしないだろうが。ただ、人によって同じことを言ってもどう見なされるかが定まらないということは確かである。

これはどういうことかというと、普段、天然ボケをかましている人間が、たまたま、面白いネタを思いつき、口に出してみると、「天然か?やっぱりそうなのか」と思われてしまうということなのだ。「ちがうちがう」と主張しても「天然の天然たる所以は、自己認識のないところだあっ」などと言われて、とりあってもらえないのだ。こうして、ひとたび「天然」のレッテルを貼られた人間は、一生そのままで過ごしていかなくてはならないのである。逆のパターンもあって、普段からお笑い的な発言ばかりしていると、ときに普通の会話をしようとしたときに「つまんなーい」と言われてしまう。いや、こちらは、いたって普通に会話をしようとしているだけで、「おれになにを期待してるのだあっ」と悩むことになってしまう。

他人とのコミュニケーション初期において植えつけられてしまったイメージ、貼られてしまったレッテルというのは、なかなか払拭することが困難なのである。

はたして、私という人間はどうなのであろうかと考えると、実は、本人はいたって真面目で、いつも普通に会話をしようとしているので、あまり茶々を入れすぎないようにしていただきたいところである。ん、誰だ? 「ひたすら真面目に冗談を言おうとしているんでしょ」などと言っているやつは…。あながち間違っていないだけに、なにも言えないではないか。うーむ、こういうイメージがネタ人間のネタ人間と呼ばれる所以のところなのであろうかとも思う今日このごろなのであった。

Copyright © 1999-2001 tetsuya / stonefield's office