…といった大仰なタイトルではあるが、「日記」といってもウェブ上に公開されている日記の類のことを述べているわけではないので、日記サイトの運営者の方、目の敵にしないでいただきたく存ずる。
ある調査によると、女子高生の半数以上が日記をつけ、日記をつける生徒のほうが人生や社会について考えている、らしい。ベネッセの調査らしいから、ある程度の信頼性はあると思うが、如何なものか。
そもそも、女子高生の日記というのはあれだ。あの、手帳にカラーペンで書かれた細かい字のことだ。あの感覚は一切理解できない。しかもそこにハートマークのシールなんぞが貼ってあったりして…考えただけで、吐き気がするのであった。
別に日記に対して嫌悪感を持っているとか、そういうわけではないのであるが、どうも、あの手帳日記というのは嫌になる。何故かということを考えてみると、あの日記の文字の細かさがまずは嫌なのだろう。文字の細かさに代表される内容の細かさ。そして、絶対くだらないことがたんまり書かれていて、他人が読んだら九割九分九厘ゲンナリする内容に間違いないのだ。しかも、他人の見えるところで書いているくせに、見られることを極端に嫌うのだ。だったら、ひとりのときに書けよと言いたい。そもそも手帳に刻み込んでおかなければ100%忘却の彼方に超光速で飛び去っていくに違いない出来事を記録しておく意味があるのか、ということなのだ。
そりゃあ、忘れてはいけないことを書いておくということはこの自分にでもある。その媒体として手帳というのは気楽である。日記帳のようにしゃちほこばっていないし、そもそも毎日書かなくてはならないということがない。そして、単なるメモ紙と違って、簡単になくなったりしない。過去の手帳も残してあるから、去年のいつごろにこれをやったからそろそろだな、ということはある。
それなのに、何故、日記に対して負の感情を持っているのであろうかと考えると、3ヶ月ほど前に書いたレポートに当たるのであった。
入力装置の役割はふたつある.ひとつは人間の意思をシステムに伝えるためであり,もうひとつは人間の役に立つ情報を蓄積するためである.前者はシステムの提供するサービスの中からの選択であり,後者はそれにとらわれない.また,後者においては,入力の向こうには必ず人間(他者あるいは自己)への出力が意識される.たとえちょっとしたメモだとしても,未来の自分に対して出力されることが考えられなくてはならない.
(大学院講義「ヒューマンインタフェース」レポートより / 強調は今回つけたもの)
なるほど、そういうことなのである。日記というのは、ひたすら内に閉じこもって書いているイメージがあるし、他者に見せるために書いている文章ではない。下手をすると、人によっては自分でさえ二度と読まないなどと言う。それならば、何故、書いているのかと聞くと、文章にすることで自分の気持ちを整理するため、と答えた人がいた。なるほど、そういう効用があるのかと思ったが、しかし、やはり、自分をも含めた他者に見せることのない文章ということを、私はどうも嫌っているようなのだ。その点、ウェブ上の日記書きの人々は、他人から見られること、さらには他人に見せることをはじめから意識しているから、私の持つ感情もまったく異なるのであろう。
しかし、ただひとりで書いている日記を否定しさってしまうのかというと、そうではないとここで断言しておきたい。どのような形であっても、その文章が日々の生活にフィードバックされ、外部に表現されうるのであれば、日記として書かれた文章も浮かばれるのではないかと思うのだ。
そういうわけで、世の日記帳をつけている方々、もしもよかったら、日記をやめて、ネタ帳に乗りかえるのは如何でしょうか? マイブック2001のかわりに、ネタ帳2001なんてどうでしょう? って誰も買わないだろうけれどね。え? お買い上げ? ありがとーごぜーますだ。