穴埋め (Document Analysis - 9)

新年を迎えたというだけでなにが変わるというわけでもない、などということは、ほんとうに何度もいわれていることであって、ここでこのことを取り上げるというのも随分とつまらないことだなあと思う。しかも、最も大きな問題はというと、今日はすでに新年が明けてから2週間以上経過しているということであろう。

そうはいっても、新年とか新世紀とか言ったところで、大きな意味を見出せないというのが、理性的な立場なのである。たとえば、日付が変わる、というのは、少なくとも物理学的な意味があろうと思うのである。つまり、ある地点における南中時刻と南中時刻の中間時刻、といったらよいであろうか、少なくともこういった意味では普遍的な意味を持つ時間的ポイントなのである。

ところが、新年、というとこの物理学的な意味が極めて薄いといわざるを得ない。1年の始まりが、たとえば、春分だとか秋分だとか夏至だとか冬至だとか、あるいは遠日点だとか近日点だとか、そういった日であれば、物理学的な意味があるといえる。しかし、なにやら適当な冬の一日(北半球において)をもって、1年の始まりである、と宣言されても、物理学的な意味は皆無であろうと思う。

新世紀、などというのは、さらにこの傾向が強くて、まず、西暦であるという時点で、イエス・キリストの生誕をもって、西暦のはじめとしている。しかし、実際のところでは、数年のズレがあるということもわかっているから、これは、そういうふうに決めたのだ、という以外にはない。

さらにいってしまうと、100年をもって1世紀というようにいうが、この100年というのも物理学的な意味は全くもってない。10年ならばよかったのか、1000年ならばよかったのか、というわけではない。これは単に、人間というのが十進法を用いているから、という理由にほかならないのだ。数の数え方において、十進法というのは大して意味のあるものではないのである。もし、人間が八進法を用いていたならば、1世紀は64年だったかもしれないのだ。

こんなことをつらつらと述べている理由は、新年が明けたところで全くもって気持ちが一新されないという自分のいいわけに書いているようなものなのだが、しかし、新年が明けたという理由だけで、気持ちが一新されて、実際に活躍している人というのは、実はとてつもなく凄いのではないかと思う。何故かというと、新年が明けたところで、環境が大きく変わるわけではないのに、気持ちだけでそこまでの活動ができるのである。たいていの場合、気持ちばかりが空回りして、結局のところ、なにも進まず、よって、やっぱり駄目だ、という結論に落ち着くというのが多いのではなかろうかと思う。むろん、気持ちの問題、というのは多分にあると思うのだが、だったら、新年あるいは新世紀を迎える前からやっていればよかったのに、ということもいえるのではなかろうかと思うのだ。

要するに、新年だからといって、気張っていない人間が、うまい具合に力が抜けていて、活躍できるということがいえるのではなかろうかと思うのである。

さて、はっきり言って、このようにだらだらと書き連ねているのは、「ドキュメント解析」の10回目を、すでに1週間遅れているのも関わらず、まったく書いていなかったからである。しかし、実のところ、テーマが「穴」なだけに、書かずに穴にするというのもアリな気がしたのだが、さすがにそれはまずいと思った次第なのであった。

そういうわけなので、穴だらけの本文を許して頂けると嬉しい今日このごろなのである。

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