酒なのであった。そりゃ、私だって酒は飲む。しかし、若輩の私としては、酒について語るということは困難ではなかろうかと思うのである。そう、考えてみると、堂々と酒を飲むようになってから数年が経とうとしている。だが、まだまだ、酒に関する考えを述べるにはガキであろうと思うのである。
大学院講義「ドキュメント解析」なのだ。後半戦は、各チームによって出されたテーマにしたがって進んできたのだが、今回は、Fチームによる出題、最後のテーマである。そのテーマが「酒」である。
酒と文章、というと、実のところずいぶんと相性がいい。昔から、作家という方々には酒飲みが多いし、文学には、恋愛などと同じように酒が出てくる。恋愛が主演だとすれば、酒は助演である。あるいは、小道具として酒が用いられる。文豪ヘミングウェイが酒飲みで、彼はダイキリ(フローズン・ダイキリ)を愛していたのは有名な話だ。
酒を飲みはじめるようになる前から、本の中で小道具として使われていた酒、とくにカクテルを知っていたからだろうか。もう何度もカクテルを自分で作ることに憧れる時期があったが、今では、そんな暇がなくて諦めている。いつかまた思い出したように考えることがあるかもしれない。
私が酒の中でもGINを好み、その次がVODKAだというのも、カクテルと無関係ではない。これらは、カクテルのベースとしては最もポピュラーなものである。
そういう意味では偏見があるかもしれないが、文章のなかで、小道具として使われることが多いのは、やはりカクテルである。いや、単に、影響を受けた文章にカクテルが多かったからかもしれない。ワインや日本酒や焼酎やウィスキーでもよいかもしれない。だが、焼酎というと飲んだくれなイメージがわいてしまう(焼酎党の方々、ゴメンナサイ)。日本酒は、しっとりというかそういうイメージだし、ワインやブランデーは、ブルジョアなイメージである。ウィスキーでやっとハードボイルドなイメージが出てくる(といっても、水割りは却下である)。そういうわけで、カクテルが小道具としてはいちばん使えるような気がするのである。
とかなんとか言っているが、だいたいが受け売りの口上なものであって、実際のところは、なーんにもわかってない、ただのガキの言っていることなのであるからして。
そうはいっても、小説という方向から入った酒の知識であるから、酒を飲む際にも、スタイルが重視されるのは言うまでもないことである。巷では、ぐでんぐでんに酔っぱらった飲んだくれが転がっているが、ああいう種類の飲み方は格好がよくない。酒は、うまく飲まなくては格好よくないという思想が根底に流れているのだ。
瞬間的には勘違いしていることもあって、強い酒を何食わぬ顔をして飲むということを格好がよいと考えることもある。ウィスキーであれば、ロックを飲むのはこういうところからなのだが、思っているほど酒に強いわけではないので、翌朝は心配である。しかし、たいていは、この、格好よく飲む、という方針はうまく行っているようで、記憶をなくしたこともない。と言いつつも、理性だけは飛んでいるのが厄介なところではある。
でも、実のところ、20代前半の若輩が、酒についてとやかく語れるとは思わないのだ。それほど多くの酒を飲んできたわけでもないし、多種の酒を飲んできたわけでもない。これが好きだ、あれが嫌いだ、この酒の中でもとくにあれが好きだ、といったことを言えるほど、ものを知っているわけでもないのである。そういうわけで、美味なるものをいろいろ飲んでみたいので、誰かご馳走してください。お願いします。
…って、こんなところで、お願いしてもしかたがないのだけれど。