ねた・とーく

コンピュータの間で通信を行うときに、異なる機種の間でも相互に通信ができるよう、共通の通信手順を決めたものを「プロトコル」という。また、このプロトコルをいくつかの層(レイヤ)に分離して設計することを「階層化」あるいは「レイヤリング」という。階層化することでなにが嬉しいのかというと、上下の階層においてどのようなことが行われていようと、その階層は独立して仕事をしていればよい、ということである。

OSI 階層モデル
7application
6presentation
5session
4transport
3network
2data link
1physical

さて、このプロトコルが異なると通信はできないということになる。人間の場合でも、手紙なのか、電話なのか、あるいは直接に会っているのか…というような違いがあるが、どのような媒体を使うか、ということで考えると、これが(物理層における)プロトコルであると考えることができるだろう。さらに、使用する言語がなにかということを考えると、日本語しか使えない人と英語しか使えない人の間では会話が成り立たないが、この間に通訳という層を挟むことで、意志の疎通は可能になる。さらに、これは物理的媒体がなにかということには関わらず、すなわち、階層化に成功している、ということがいえるだろう。

しかし、実際のところ、本当にレイヤやプロトコルは我々のコミュニケーションにおいて存在するのだろうか。我々がコミュニケーションする際に必要とされるのは、媒体や言語だけではないのである。

たとえば言語が同じであったと仮定しよう。しかし、それだけではコミュニケーションは成立しないのだ。たとえば、森の中でクマさんに出会ったとしよう。そして、クマさんのいうことにゃ「お嬢さん、お逃げなさい」なのである。普通、森の中でクマさんに会った瞬間に逃げ出すものである。つまり、言語の共通性の問題ではなく、人間かクマかという、物理的に異なっている時点で、コミュニケーションは存在できないわけである。

通信をおこなう、つまり、言葉の遣りとりをするだけのためにも、既に、「人間である」ということが必要であることがわかってもらえただろうか。

さらにつけくわえて、「同じ言語を話す」ということも必要であると述べておきたい。いや、さきほど通訳というレイヤを挟めば大丈夫だと言ったのは重々承知している。しかし、考えてみよう。たとえば、あなたが通訳だったとして、以下の簡単なセンテンスを訳して、英語しか理解できない人に伝えていただきたい。

「布団がふっ飛んだ」

如何であろう。この短いセンテンスでさえ、その意味をまったく損なうことなしに伝達することはできないのである。

さて、上記のふたつの条件だけでも意思疎通を完成させるのは困難である。「人間」であり、「日本語を使用」している、これらの共通点があるというだけで、「布団がふっ飛んだ」などということを述べてはならないのである。多くの場合、この種の用法を使用した瞬間に、すべての通信が拒否されてしまうことが予想される。たしかに上記の例はあまりにもひどいものである。通信妨害にも近い。場合によっては、不正アクセスと見なされかねない。クラッキングともいえよう。しかし、間違いなく、「同じようなコミュニティである」ということは重要であろうと考えられる。我々の場合は、「冗談を解する」あるいは「駄洒落に寛容である」というコミュニティだという必要があるだろう。

さあ、「人間」であり、「日本語を使用」し、そして「冗談を解するコミュニティ」であれば、すべてが通じるのか、というと、そうもいかないのだ。

あるグループにおいて特有な冗談、というものがある。一般に「内輪ネタ」といわれるものである。これは、そのグループ内でしか使用できないのである。ここまで狭いものでなくても、あるテレビ番組やCMをモチーフにしたことを言おうとする場合には、それについて知っているということが前提となるのだ。というわけで、「共通の知識背景がある」ことが重要とされるのである。

はたして、我々が自由にネタを披露するためには、ここまで厳しい条件をくぐりぬけなければならないのであった。階層化などというのは、到底、解決不能な問題なのである。嗚呼、ネタ人間のグローバル化は、夢のまた夢なのだ。


(註) 誤解があると困るので書いておきますが、「ネタトーク」というモノは存在します。

netatalk
UNIX上でAppleTalkによるサービスを提供するソフトウェア。ネットワークを通じてMacintoshにファイル共有サービスやプリンタ共有サービスを提供することができるようになる。
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