(Document Analysis - 7)

12月である。師走である。20世紀ももうあと僅か、というやつである。いかに短いか、ということをあらわすのに、ある期間を1日(=24時間)に射影して述べるという手法(つまり、地球の歴史46億年を1日に射影すると、恐竜の登場が23時ごろ、恐竜の絶滅が23時40分ごろ、そして人類の登場は23時59分ごろ、というやつ)があるが、20世紀という100年を1日に射影すると、もう残り1分しかないという、とんでもないことになってしまっている。1日の最後の残り1分であなたは何をするだろうか。私はまちがいなく雑文を書いて更新しようとしているだろうと思う。

さて、大学院講義「ドキュメント解析」の8回目であるが、テーマは「本」ということである。前回の「ニュース」も困難を極めたが、今回の「本」もなかなかに手強い相手である。なにしろ、下手に身近であるだけに、扱いづらい。読書感想文的なものが出てきそうで、そうなるともはや「コラム」の範疇ではない気がする。「コラムなのかこれは?ショートショートにさえなっていない」といった作品が多いこの講義の内容を某Kと憂いてみた先週であった。

そうは言っても、微文積文のほうではなんとでも書けるというのが嬉しいところだ。理系の大学に籍を置いているせいなのかどうかはわからないが、私はそれなりに本を読んできた種類の人間だと自負している。(以下、過去に読んだ本のジャンル等の羅列なので、この段落の終わりまで飛ばしても結構です…) 小学校のころからその気配はあったようで、記憶しているだけでも、ミヒャエル・エンデの「モモ」は祖母の読書会の本を借りて読み、コペル君で有名な「君たちはどう生きるか」も読み、サンテグジュペリの「星の王子さま」も読み、そして当然ながら「江戸川乱歩全集」も読破した。うむ、思い出してみると、小学校のときにかなりの本を読んだらしい。推理小説あたりがその頃の基本ジャンルであったようだ。中学校での記憶は曖昧なのだが、新書「ブルーバックス」の物理分野を図書館に並んでいる順に借りたような気がする。アインシュタインにはここで出会ったのであろう。また同時にSFに興味が移り、A.C.クラークを文庫本で買いまくって読みまくった。いまでも実家の本棚にはクラークがずらりと並んでいる。さて、高校に至ってもクラークは読みつづけていたが、そのときの国語教師の影響で女性作家を読みはじめる。手始めに、氷室冴子の「海が聞こえる」から始まって、そのへんからリンクしつつ女性作家(特に恋愛モノ)を図書館で借りながら読んでいた。よく考えるとずいぶん恥ずかしい過去ではある。今に至っても読みつづけているのではあるが。で、結局のお気に入りは、山田詠美、というあたりが、男ではめずらしいかもしれないが…どうなのだろう。ともかく、山田詠美を読んでいる人に出会うと思わずそれについて話してしまうのだ。そういえば、あの国語教師の薦めた本「ぼくは勉強ができない」から山田詠美を知ったのだったか。もちろん、それ以外でも(当然ながらここに書くことができたのはごくごく一部で、よくよく考えながら書くと、おそらくとんでもないことになる…)ずいぶん読んでいるのは確かである。いまでも文庫本を、買っては読み、読んでは買い、している。(モノローグにおつきあいいただき、おつかれさまでした…)

と、要するに何が言いたいかというと、少なくとも自分の読書履歴について語れるくらいの読書はしてきた、ということなのだ。これが、人によっては、聴いてきた音楽の履歴であったり、使ってきたコンピュータの履歴であったり、観てきた映画の履歴であったり、観てきたアニメの履歴であったり、攻略してきたゲームの履歴であったり、ためてきたネタの履歴であったり、泣かしてきた女の子(もしくは男の子)の履歴だったりするわけであろう。なにごとにせよ熱中したものがあると、人間の幅や面白味がぐっと広がる、ということは言えると思う。

というわけで、「本」については、細かく言えばいくらでも話すことがあるのだが、「コラム」ということになるとなかなかに困難である。まあ「コラム」というものの定義にもいろいろあると思うのだが、「短い評論」というのが一般的なようである。しかし「短いエッセイ」というのもあってもよいのではなかろうか、と思うのである。エッセイといってわかり難いのならば、「随想」などといってもよかろう。要は、個人的な観点から物事を述べた文のことである。テーマに絡めて、自分自身について述べるのも悪くない。

ポケットにマルボロとジッポーが入っているのと同じような理由で、私の鞄の中に入っているものがある。

公言して憚らないが、私はいわゆる「活字中毒」というやつである。もちろん、煙草と同じくそれほど激しいものではないのだが、しかし、煙草に激しい依存を示さないぶん、活字への依存は高いものがある。文字に対して極めて敏感なあまり、なんらかの文字の羅列があると読まずにはいられない。特に私は目がよいものだから、遠くても小さくても文字として認識してしまう。そうなるともうだめで、たとえそれが食堂のテーブルに置かれたソースの瓶であっても、その宣伝文句から原材料まですべてを読まなくては気が済まない。食堂などであればまだゆっくりとしていられるが、朝の電車の中で吊り広告が目に入ると悲惨である。その内容を読めれば満足するのだが、もしも遠くにあって字が小さく読みづらいと、満員電車であれば移動もままならずに下車すべき駅に到着してしまう。その日は帰りの電車に乗るまでその広告のことが頭に残って仕事も手につかないといったことになる。

だからといって、その文字列からなんらかの有用な情報が手に入るかといったらそうとも限らないわけであるが、そんなことは些細なことで、要は文字列を読むことができればそれでよいのである。中毒症状の典型なのだ。

そういうわけで、鞄の中には文庫本が入っている。これさえ読んでいれば、ほかの文字列が目に入ってしまうことはないし、たとえ入っても、目の前に十分な量の文字が文章として存在するのだから、禁断症状に苦しむこともない。ただ、もちろん副作用もあるわけで、短編の途中や章の途中などで下車すべき駅に到着し、そこで閉じてしまうとその続きが気になって仕事が手につかなかったり、もっとひどいと、熱中のあまり終電にも関わらず乗り越したり、ということもある。

無くても生きていける、しかし、無ければストレスのもとになり、むしろ持っていたほうがよい、いろいろと副作用があるのはわかっていつつも手放すことができず、1年間のコストを考えると実はとんでもないことになっている、まさに中毒の結果、それが鞄の中の文庫本なのである。

大いに嘘である。とんでもないことだが、嘘がちりばめられている。私は、煙草はマルボロではないし、ライターはジッポーを使わないし、そもそも煙草を吸わない。吊り広告を読みたいという欲求は発生するものの、読めなかったからといって仕事に影響が出たりはしない。ストーリーが気になって仕事が手につかないということもないし、読書が原因で終電を乗り越したこともない。さらに、文庫本につかったお金が実はとんでもないことになっているということもないのだ。せいぜい本当のことが書いてあるとすれば、有用無用を問わずに文字列を読みたがることと、ソース瓶の側面をじっくりと読むことくらいであろうか。

コストの話をしたが、文庫本というのは実のところ随分とコストパフォーマンスがいいと思うのだ。昔に比べて高くなったとはいうものの、千円札があれば1冊、ものによっては2冊は買える。そもそも私は電車移動の途中にしか読まないことにしているし、その時間は毎日最大20分がいいところであるから、1冊あれば数日ないし1週間は持つのだ。煙草でいえばかなりのライトスモーカーである。

そうは言っても、金を出してまで不味いモノを口にしたくないのと同様、つまらない本を読む気はさらさらない。面白くない本を読むほどヒマではないのだ。そういうわけで、面白い本を買いたいし、おまけに今ストックしてある文庫本がなくなると、おそらく活字中毒の禁断症状が出始めるだろうから、それまでに、また本屋さんに行こうと思っている。


最後にひとつ。今回のテーマ「本」のコラムを出さなかったのには、実のところ大きな理由がある。もちろん、ネタが浮かばなかったのもあり、あるいは、気がついたときには既に水曜日17時を過ぎていた、というのもある。だが、それ以上に、このテーマに関して、強く「やられた!」という作品を既に知っていたのが最大の理由だ。それを紹介して、今回の「ドキュメント解析」を結ばせていただく。読んでいただければわかると思うが、おそらく誰もこれには勝てない。それ以外に、結ぶべき言葉を私は今回持っていないのだ。

『雑文館』:「乗り越すほど」 ――いったい私は、今までなにを学んできたのだろう。

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