いやはや、歳の瀬である。世紀の瀬である。といったことは前回も書いた憶えがあるのだが、このような書き出しで書かれている文章がどのくらいあるのか、ということを調査するのもなかなかに面白いかと思われる。おそらく、2000年に入った途端、そして12月に入った途端、それから12月最後の週に入った途端、あるいは2000年最後の更新をするとき、といったあたりにピークが来そうな気もするが、調べたわけではないので詳細はわからない。しかし、この手の書き出しを何度も使うような狼藉者もいるので注意が必要である。
はてさて、そういったわけで、大学院講義「ドキュメント解析」も本年最後となった。次回は21世紀になってから、というわけである。第9回目となる今回のテーマは「歴史」である。嗚呼、何故にこのやうな難しきテーマを与へ給ふのか。前回、前々回と厳しきテーマが続きし中で、更に加へて難しくなっているぢゃあないか。多少なりとも、毎回執筆しているものどもへのいたはりがあってもいいんぢゃあないか、と思ふのである。そもそも、マネージャー(教官の自称)の専門は“歴史学”なるものゆえ、此れは無謀なる挑戦と言はざるを得ない。
…と怪しげな歴史的仮名遣いを駆使してしまうほどのテーマ「歴史」なのだ。高校のときに選択した科目は世界史であった。そもそも、日本史よりも世界史のほうを選択したのは、日本史の先生が嫌いだったからではなく、漢字を憶えるのが苦痛だったからである。ところが世界史は広いもので、漢字嫌いにとっては拷問としか思えない中国史があるということに気がついたときには時すでに遅く、その拷問には耐えるほかなかったのであった。
とは言っても世界史というのは面白いのだ。高校のときの社会科(世界史)教師(ただし我々の担任ではない…たまたま自習監督でクラスに来た)曰く、「理系より文系のほうがええぞー、なにしろ世界史は話しても面白いからなー。おまえら、理科や数学の話じゃあ、女にもてねーぞ」 これを理系クラスで言い放った彼もどうかと思うが、それに影響を受けて文系的知識を無駄に持つに至った理系の自分もどうかと思う。
そのとき引き合いに出された話がこうである。うちの高校(男子校)のある先輩(理系)が大学に入って彼女ができたそうである。彼はその彼女とともに遊園地に行ったそうだ。そしてジェットコースターに乗って「等加速度運動が…」云々という話をしてしまったそうで、彼女には振られてしまったらしい。…どうかと思うが、話が出来すぎとも思う。さらに続きがあって、その彼が新しい彼女を作ったのだという。前回の失敗から学んだのか、今度は喫茶店でデートである。そして、会話。「紅茶って渋いよね」「ええ、そうね」「渋いのはね、タンニンがね…」やはり振られてしまったらしい。…かなりどうかと思うが、ここまで来ると狙ってやっているとしか思えない。ネタ人間の称号を与えたい。
さて、テーマ「歴史」のコラムを書かなくてはならない。思うに、数百字ほどの文章の中で伝えたいことを書こうとすると、読者にある程度の前提となる知識や教養を期待しなくてはならないのではないか。すべてを説明するためには、まさに紙幅が足りないのである。たとえば、コラム「なかった日(for ニュース)」においても、会議の中で近年の時事トピックを取り上げているが、これが理解されないかぎりは評価もされ得ないのである。もちろん、あまりに高度あるいはマイナーな知識を要求する文章が評価されないのはしかたないとは思うが。さて、今回のテーマ「歴史」を考えると、この要求がさらに厳しいということがわかるだろうと思う。歴史上のあるトピックを取り上げてそれをネタにするとしても、そのトピックの詳細を説明をするほどの余裕はないのである。しかも、その範囲が極めて広い。特に、我がホームグラウンドであるところの世界史、わけても西欧史、哲学・思想史、さらにはキリスト教的なコモンセンスについては、理系ひと筋の読者には理解され得ないのではなかろうかと思う。そういった意味で「歴史」というテーマは書きにくいし、さらに読みにくいものであろうことが予想されるのである。
初めに、神が天と地を創造した。地には形がなく、何もなかった。
「…ってゆーか、なんなの! 真っ暗じゃない! 光、光がいるわ。光!」
そう、神は真っ暗なのがお気に召さなかったのである。
「これでいいわ。明るいときを“昼”、暗いときを“夜”としましょ」
こうして、第一日が終わった。次の日、まだ気に入らないことがあった。
「明るいのはいいけれど、何もないじゃない!」
そういうわけで、まず大空が創られ、大空の上にある水と、大空の下にある水が区別された。こうして、第二日が終わった。さて、次の日である。神は下界に降りて、ご機嫌ななめになった。
「ちょっと、なんなの! 濡れちゃったじゃない。真っ白な服なのに!」
そういうわけで、かわいた所“陸”と水の集まった所“海”が創られた。
「これでいいわ。でも、ちょっと“陸”がさびしいわ」
そういうわけで、陸には草や木が生えるようになった。こうして第三日が終わった。次の日である。
「あ、忘れてたわ。昼と夜のしるしがいるわね」
そういうわけで、大空にふたつの光る物体を創り、片方に昼を、もう片方に夜をつかさどらせることにした。太陽と月である。こうして第四日が終わった。次の日である。
「陸には草や木があるけど、海と空って、さびしくなーい?」
そういうわけで、海を泳ぐものと空を飛ぶものを創られた。第五日が終わった。次の日である。
「陸にも動くものがいるわよね」
そういうわけで、陸を駆ける獣などが創られた。さらに、神は自分に似せて“人間”を創った。もちろん男である。こうして創られたものをすべてをご覧になった結果、それは非常によかった。こうして、第六日が終わった。次の日は…。神は創った男と前夜に愉しみすぎたので、疲れてお休みとされた。そういうわけで、第七日はお休みということになった。
その男アダムがさんざん遊ばれた末、楽園に置かれるのは間もなくの話である。
とはいっても、「創世記」をネタに遊ぶのは、かなりヤバいことだと思うのだが。いや、そもそも「歴史」なのかという疑問は横に置いといてだな…。