ニュース (Document Analysis - 6)

先週は木曜日が祝日で講義がなかったため、微文積文の「ドキュメント解析」シリーズもお休みであった。そのわりに、何故か3本も通常バージョンができている。よくわからない状況だ。しかも、実のところを言うと、書きたいことがいくつかたまっているのだ。本当に先週はよくわからないことになっている。とは言っても、書きたいことをまとめるという能力には少々欠けていて、だから、書きたいこといくつかあるにも関わらず実際には書けていないし、先週の3本も、支離滅裂さ、まとまりのなさが、いつもにも増して目立っている気がする。これでよいとは思っていないのだが…。ともかく、「ドキュメント解析」後半戦がスタートなのだ。

後半戦スタートということで、大学院講義「ドキュメント解析」のルールを復習しておこう。この講義は、文章力を上達させることを目的としている。履修者は、A-Fの6チームにわけられている。このチームの中で講義ごとに少なくとも1人、コラムを書く担当がいる。これは、前の回の講義の終わりに確認される。それ以外にも、書こうと思った人はコラムを書いて出してもよいという「乱入」システムもある。よって、講義には 6 +αのコラムが出てくるのだ。これらが全員に配布され、全員が読むのだが、この時点では、コラムの作者は誰なのかわからない。読んだ後、チームごとにディスカッションを行う。チーム内に少なくとも1人はどれかを書いた人間がいるのだが、論評する際にはそんなことはわからないので、好き勝手に言われるのだった。最後にチーム内で上位3位までのコラムを決定し、上から3点2点1点の配点で点がつけられる。6チームの合計で全コラムの順位が決定し、そこで始めてコラムの作者が正体をあらわすということになる。…ということになっている。

さて、前回までのテーマは、マネージャー(教官の自称)によって決められていた(というよりも、話を聞いていると、毎年同じ…?)のだが、今回から、我々が決めることになっている。今回はAチームによるもので、次回はBチーム…となるはずだ。今回のテーマは「ニュース」なのであった。というわけで、「ドキュメント解析」ついに7回目なのである。

「ニュース」である。ある意味では、実に限定的であり、また、実に非限定的な言葉でもある。別の意味に解釈することが難しいが、しかし、内容としては自由に書きやすい。真面目に書こうとすれば、とことんまで真面目に、社会的に書くことができるが、しかし、ネタに突っ走るのは少々困難でもある。しかも、前回提出したときに、「小ネタがちりばめられていて」という、よいのか悪いのかよくわからないコメントをもらっているので、あまりネタに走ることのできない今日このごろである。

実は今回、乱入ではなく、チームで決められた担当になっているので、本気で書かざるを得ないという状況なのである。とりあえず休みがあったので、2週間の執筆期間があり、余裕があったはずなのだが、いつのまにか書けないままに前日を迎えているのだった。焦りまくるのだが、浮かばないものは浮かばない、ネタが浮かばないのである。虚しく時間はすぎて、メールでマネージャーに印刷を依頼できる〆切の17時が目前。しかたないので、「当日、自ら印刷して持っていく」というほうの選択肢をとることを決定し、その旨をメールしたのだった。

これで、十数時間の余裕を得たものの、やはり浮かばない。いや、それなりに浮かぶのだが、具体化ができないのだった。まず浮かんでいる構想は、「風が吹けば桶屋がもうかる」式のニュース解説であった。つまり、ある事件をとりあげ、その原因を全くもってとんでもないところにおき、そこから飛躍しまくる論理構成で、結果たる事件そのものまでもっていこうとするものである。しかし、これはふたつの理由で却下された。ひとつは、そんな飛んでる論理を数時間で完成させられないこと、いまひとつは、これはただのネタだということである。

とりあえず今回は、ネタではなくコラムであることを重視しよう、という姿勢がある。「辞書」でも書いたように、「コラムとは批評批判風刺の類を含んでいなくちゃあいけない」ということであるから、批評批判とは言わないまでも、せめて主張のある文章を書いてみようと思ったのだ。

ひとつ、ニュースに関して持っている考えというのは「ニュースというのは、たいていが遠い世界の出来事で、私たちの日常に深く関わってくることはない」である。そういった主張をしながらも、「街頭インタビューの背景には何故いつでも馬鹿面の若者が笑っているのか」と思うのだが、あれはあれで自分はしないまでも「テレビに映るということの嬉しさ」というのが存在するのではなかろうかと思うのだ。

私の一日は、ニュースに始まり、ニュースに終わる。朝起きると、テレビをつけ、朝のニュースを見る。帰ってくると、夜のニュースを見て、それから寝る。そんなふうに、ニュース、とくにテレビのニュースは生活の中に組み込まれている。

しかし、いろいろな事件が起こるものだ。政治は昏迷しているし、経済は低迷している。有名人は、恋愛したり破局したり結婚したり不倫したり離婚したりと実に忙しそうだ。そして、また誰かがつまらない発言の端々をとらえられてバッシングされている。世界中で、人々は喜怒哀楽している。しかし、私の日常はまったく変わらない。ニュースが会話の話題になることはあっても、それはテレビドラマを話題にするのとそれほど大差はない。すべて遠い世界の出来事だ。「ここらしいよ、あの事件のあった場所は…」「ふーん、そうなんだ」「ここなんだって、あのドラマのロケは」「ふーん、そうなんだ」日常生活と接点を持つとしても、たかだかこの程度で、事件の真っ只中に入ることなんて、それこそ一生に一度あるかないかというところだろう。

今日も朝起きると、さっそくテレビをつけた。天気予報をしている。ニュースの中で自分に関係しているのは、この天気予報ぐらいなのではなかろうか。それにしても関係するのは自分の住んでいる地方だけで、ニューヨークやロンドンの天気は気になりはしない。チャンネルを変えると、レポーターがこっちに向かって歩きながら喋っている、お決まりのパターンだ。何を言っているかなんて興味もわかない。いつもの光景だ。ひとりの芸能人を囲んでインタビューが行われている。型どおりの質問、型どおりの返事しかしない。いつもの光景だ。私がこうなることはおそらくないだろう。なるぐらい有名になったら、笑いが止まらないだろうか。それにしても、今日は外が騒がしい気がするが、なにごとだろう。変なトラブルでなければよいのだが…。

ドアを開けてみると、フラッシュで目が眩んだ。たくさんのレンズがこちらを向いていた。マイクが何本も見えた。なにがなんだかわからなかった。後ろを見ると、テレビが、私の後頭部を映していた。しかし、その裏側の、困ったような顔で微笑んでいるであろう、私の顔を映してはいなかった。

もちろん、この文章の展開に無理があるのはわかっているし、主張らしい主張というのが見えにくいのもわかってはいるが、日常と交差する奇妙な世界の入口というのが醸し出されていればそれでいい。そもそも、これは、提出用に書いたものではない。ただ、最後の段落は、構想段階で出て来ていたもののひとつにあったというのは書いておこう。

「もはやそのニュースを聞くものはいなかった」というのも書きたいと思ったのだが、これは最終戦争の後で、などというテーマでよく使われるものだし、実はあるところで既に使われていたので避けて通らなくてはならなかった。

主張のあるコラムというのは、読んだ後味がいいものだけとは限らない。「これはいい作品だが、後味が実に悪い」というコラムをいつかぜひ書いてやりたいと思っている。死だとか悪魔だとか、そういったものを内容に含むと味が悪いに違いない。虚無主義的なものも味が悪そうだ。ただ、いまだにうまい構成にできたことがないのは、テーマに合わないのか、それとも、それだけの力がないのか。

そういう気持ちを持ちながら、ある程度、真面目な(つまり、ネタっぽくない)つもりで書いたのが、提出用のコラムである。全体の構想や、最初と最後の段落は、はじめの構想で持っていたのだが、どうしても具体化が昼間のうちに進まず、夜も零時をすぎてからやっと書きはじめたというところが、夜型人間の性(さが)というものであろうか。…それでは、提出コラム「なかった日」をどうぞ。

さて、次回のテーマが何になるのか、講義前の現在ではわからないが、次回の微文積文はもっとやわらかいかんじでいきたいものである。いや、だから、ネタに走りたいという意味ではなくて…。

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